ENo.0076　アプリコーゼ

『………さあ、刻限ですよ。アプリコーゼ、クルレタスフィア。
貴方達の成果を見せて頂きましょう――――』


空から降るように声がした。
瞬間、ふわりと白い羽根が眼前に広がる。

俺の上官にあたる、大天使・シトロニエ。

てんしさま、と呼んで、アプリは駆け寄った。
アプリはシトロニエ様が大好きだ。
自分を人間へと変えてくれた張本人なのだから当然ではあるが。
俺は…あの何でも見透かしてしまうような瞳が、ひそかに苦手だったりする。

「頑張っていましたね、アプリコーゼ。
あなた方の頑張る姿をもう少し見ていたかったのですが、
残念ながら時間がきてしまったようですね。」

アプリははっと気づいた顔をして、
先程まで自らの手首に結ばれていた
桃色のリボンを目で探した。
ほどけたそれは床に落ちている。

「…これがほどけるとアプリは杏に戻るって聞いてましたけど。」

ほどけたリボンを拾いに向かうアプリの腕の中から、
その説明をした本人に問う。

「あら、そんな事を言いましたか。
それはただ刻限を知らせるだけのもの。
ほどけただけでは元の姿に戻ったりしませんよ。」

微笑を讃えたまま答える。
ああ、俺はこの人のこういうところが苦手なんだ。

「……これ…とれた……………おわり…？」

リボンを拾ったアプリがシトロニエ様にそれを差し出した。
シトロニエ様は少しかがんでアプリに視線を合わせ、
リボンを差し出すその手をそっと自らの手で包みこんだ。

「そうです。わたくしはあなた方に答えを問わねばなりません。
―――アプリコーゼ。
あなたは”ちゃんとした人間”になれましたか？」

アプリは包みこまれたままの手をじっと見つめて
しばらく考えていた。

「………アプリは……まだ……ちゃんと、してない……」

長い間考え込んだ末。
アプリが出した結論。

「……まだ……アプリ…なにも、できないの…。
ひとりで……しょうひん、つくったり……
おきゃくさん……うったり、できないし……。
…レタス、いなかったら……なにも、できない…。

……それは…ちゃんと、してない……おもう……。」

しゅん、と肩を落とし。ぎゅ、と俺を抱きしめる。
いつもより強い力で。
俺の体に顔をうずめて、俺にしか聞こえないような
小さな声でつぶやいた。

「………ごめん、ね………レタス………」

彼女なりに責任を感じているという事なのだろうか。
本当に、いつの間にそんな感情を覚えてしまったのだろう。
勿論彼女に何の罪もない。
ただそこに在ったから、というだけで
天使の気まぐれにより人間にされたというのに。
俺という何の縁もない天使の昇格試験のために
いきなり人間にされただけだというのに。

なのに―――

「……アプリが、謝る事じゃないだろ…。」

………何故、俺はこんなことしか言えないのか。


「……わかりました。
では、あなたはどうなのです？クルレタスフィア。」

シトロニエ様はアプリの手を離し、抱かれた俺に視線を移した。
嘘はつけない。
この御方は上から全部見ていたはずだから。

「…確かに、アプリは一人前とは言いにくいです。
人見知りが激しいし、知らない事も多い。
まだ読めない字だってある。
ちゃんとしている、とは…。1人で生きていけるとは…到底思えません。」

ふう、と少し溜息を零したのが聞こえた。
試験の結果としては不出来なのだから、仕方ないだろう。
何かを言おうとして、シトロニエ様が口を開くのが見えた。

「……ですが！」

咄嗟に言葉を続けた。
俺としてはこれで終わる気はない。
終われる、はずがない。
俺の試験の結果などはどうでもいい。
再試験を受ければいい事なのだから。
だが。
ここで諦めてしまったら、アプリの”人生”が終わってしまうじゃないか――

「けして何も成長していなかったわけではありません！
接客はまだできませんが商品を選んで並べることはできます！
人見知りは激しいけれど、何人かと話が出来るようになりました！
友人…じゃないな、あれは。…そう！姉のように慕っている人間もいます。
これから読むために用意した本もあるんです。
これから…もっと成長していける、はずなんです。
だから………」

こんな体でも、息苦しさを感じる。一気に喋ったからだ。
こんな体でも、熱を感じる。必死だから、だろうか。

黙って聞いていたシトロニエ様は
突然、ふふ、と小さく笑い

「大丈夫ですよ。アプリコーゼを杏に戻す気は、最初からありませんから。」

なんて、さらりと言い放つのだ。



「……はあ？」

そりゃ俺も間抜けな声を出してしまうというものだ。

「この短期間で一人前の人間になれない、という事はさすがにわたくしも理解しています。
ですから、アプリコーゼが一人前でないというのは当たり前の事です。
この試験の本当の目的は、別にあったのですよ。」

戸惑う俺にはお構いなしに、シトロニエ様は続ける。

「手も足も出せない、というのはどうでしたか。
口は出せてもうまく伝わらない、という事も多かったでしょう。
苦しかったのではありませんか。…歯痒かったのでは、ありませんか。」

それは…と言いかけて、その先を紡げなかった。
図星だったからだ。
アプリに何かしてやりたくても、この体ではままならない。
何かを教えたくても、言葉だけで伝えるには限界がある。
うまくいかなくてイライラした事なんて幾らでもあった。

「……それが、守護天使というものなのです。
守護などと大層な名がついてはいますが、実態は無力なもの。
その人間の運命を変えることはできない。
何かを与えることはできない。手を貸すこともできない。
いずれは消える命をただ見守る。それしかできない…そういう、ものなのです。

この試験はその役目を短い期間に縮小したもの。
――そう、あなたにはアプリコーゼの守護天使を体験して頂きました。」

な、なんだそりゃ……
声にならない声で呟いて、俺はぐったり脱力した。
その時俺の中で一杯になっていたのは…多分安堵感だ。
他に渦巻く気持ちも色々あるけど
とりあえずアプリが俺の所為で消えたりしない、と分かった安堵感。

そんな俺の様子を見てシトロニエ様はやはりくすくす笑っている。
…こういう反応が見たかったから試験の本質を黙ってたんじゃないのか、と
思ってしまう程にさわやかな笑顔だ。

「………で、結局どうなんですか俺は。」

少しふてくされて聞いてしまったのも仕方がないだろう。
むしろ相手が上官でなければ文句の一つでもぶつけていた。絶対。

「そうですね…ここで自分の試験の事ばかり考え、
アプリコーゼを見捨てるようであれば天使失格ですよ――と言おうと思っていましたが。」

シトロニエ様は膝をつき、にこりと笑みを浮かべたまま
そっと俺に触れた。




「まぁ……ぎりぎり合格といったところでしょう。
――――おめでとう、クルレタスフィア。」



瞬間、目の前が光で溢れた。
目を開けていられないほどの、光―――

目を開けるとそこに俺の”手”があった。
思わず開いたり握ったりしてみる。
そして、自分の顔に触れた。久々の感触。

やっと、この体に戻れたんだ―――……

「………ですが。」

元の姿に戻れたことですっかり気が緩んでいた俺に、
わざとらしい咳払いをした後シトロニエ様が告げる。

「あなたもアプリコーゼも言っていた通り、この子はまだ一人前とは言い難い。
一人で放置しておける状態ではありません。
そこで……あなたには、追試を申し渡します。

真に”ちゃんとした人間”になれるまで。
この子を導き、見守ってゆくのです。」




「……どう、なった…の……？」

アプリはぽかん、と虚空を見つめていた。
光が収まると既にシトロニエ様の姿はなかった。
本当に言いたい事だけ言って帰るんだ、あの御方は。

「…これからもお前の保護者をしろって事だろ。」

やれやれ、と肩を竦める。
アプリはよくわからない、といった顔で首を傾げていた。

「これからも一緒に居てやるって事だよ！」

俺はこの手でアプリの頭を撫でた。
アプリはちょっと吃驚して、でも嬉しそうに目を細めた。


初めて触れた新緑色の髪は、絹のようにさらさらとして心地良かった。